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創立者島田依史子のご紹介


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shimada_photo01.jpg「思い返してみますと、前年9月1日の関東大震災を人生の転機として、知識も経済力も無い故の不幸があまりにも多かった当時の女性の味方になろうと、私は決意を固めて立ち上がったのでした。考えに考えた末のことでしたが、まったくの独力で歩こうとする微力の私にとって、それはずいぶんと困難な仕事でありました。
私学は、まず教育理念で、常に明確かつ新鮮でなければなりません。そして時代に流されることなく、時代の行く手をいつも読みとったものであることが必要です。同時に経営面においても、安定と均衡がなければ発展はおろか、存続すらでき得ないでありましょう。
昭和というこの激動の多かった時代の中で、将来の見通しを立てることは極めて困難でしたが、一歩ずつの堅実な前進を図りながら、どうにかここまで歩いてきたというのが、私の実感です。あの長い戦争中も、生徒たちの無事をなんとか守り抜いて、終戦を迎えたときは、学園もまさに荒廃そのものでした。
そして、戦後の立ち直りは早くはできませんでしたが、今日、幼稚園から中学・高校・専門学校・短大と、それぞれにどうやら基礎は整えることができました。」(『私の歩んだ道』より抜粋)

晩年を迎えた創立者島田依史子が、自身が過ごしてきた日々を静かにふり返り、自分の「歩んだ道」をありのままに書き記した『私の歩んだ道』(昭和55(1980)年発行)には女子教育を一生の仕事と定めて女子教育のために奔走した歴史が刻まれている。

 

折々の記 島田依史子  「富士山に学ぶ」
私にとって、富士山を見ることは鏡をみることに等しい。「君子(くんし)は日に三たび反省す」という教えが昔からあるけれど、たしかに人間は、心の鏡に映 して反省をすることが大切である。(中略)私が機会さえあれば富士山をながめるのは、富士山が私の鏡になってくれるからである。「一富士、二たか、三なすび」というように、夢で富士をみることは大吉といわれているが、私にもそのような体験がある。
ある夜、富士山のふもとに一人立って山頂を見上げている夢を見た。翌朝、文部省から電話が入って、「ただ今、文部大臣の決裁が済みましたのでご安心くださ い。」という知らせがあった。忘れもしない、昭和6年12月22日のことである。(中略) 認可が下りてから、その前夜の夢の意味について深く考えた末、 私は自分に次のように言いきかせた。「おまえは、今一人で富士山のすそ野に立っている。そして、一人であの頂上をめざして進むのだ。だれも助けてはくれな い。どんなに苦しいことがあっても、目的とする女子教育の理想をめざして頂上までいくのだぞ」と。
私はこの夢に深く感謝し、シンボルとして校章にも富士山と大和(やまと)心の山桜を配したものを採用した。そして、生徒たちには、依頼心を持たないで一歩ずつの歩みを堅実にたどっていくように、と今日まで教えてきた。また私自身に対しては、常に、いま自分は富士山の何合目にいるだろうかと考え、頂上はまだ まだ遠いぞ、うぬぼれることなくがんばろうと、自らを励ましてもきたのである。
(学園紙「ぶんきょう」 昭和58年9月10日号より抜粋)

 

 「少女時代」
島田依史子は明治35(1902)年2月、東京府本郷に生まれた。父は依史子が学業成績のよいのを喜び、当時の女性としては可能な限り教育を受けさせたいと思うような人であったが、依史子が満12歳のときに病気のため亡くなった。
小学校を卒業した依史子は東京府立第一高等女学校(以下、府立第一高女、現在の東京都立白鴎高等学校)を受験するが失敗し、その後、東洋家政女学校、共立女子職業学校(現在の共立女子学園)に学ぶ。
近くの東京帝国大学や旧制第一高等学校で学ぶ生徒・学生を見ながら育った依史子はやがて「勉強好きの私は、なぜ女は男と同じように学問することができないのか」と男女の差別について考えるようになる。
女性として生まれた宿命と、島田家のひとり娘であったために家の後継ぎをしなくてはならないという運命の自覚。そのころの嫁の座のみじめさをしみじみと知るとともに、では、自分だったらどう生きるのか、ひとりの人間として、ひとりの女として、どんな生き方ができるのか、そんなことを子供ながらに真剣に考えるようになっていった。
依史子の女ぎらいは、年を重ねるにつれて強まっていった。そして、男の方が女よりなにごとにつけてもすぐれているのだという一般論が納得できないという気持ちになって、男と競争しようという対抗意識を強くもつようになった。
しかし、東洋家政女学校入学で、「負けるが勝ち」のおだやかで円満な方法こそ最上だということに気づく。こころ楽しくもないのに、常に誰かと張り合って暮らそうとする自分の生き方を、つくづく考えなおして見るようになり、今まで気づかないでいた自分の性格の短所がわかり、このまま世の中へ出たら、決して成功しないであろうと悟った。


「人間形成の時代」

共立女子職業学校を卒業した依史子は、文部省の中等教員検定試験受験を思い立つ。当時の中等教員免許状には「師範学校・中学校・高等女学校の教員たることを免許す」と書いてあったため、文部省の中等教員検定試験に合格して中等教員の免許さえ取ってしまえば、府立第一高女の入学試験に落第するほどのばかではなかったという立証にもなると思ったのだ。

そこで、なんとしてでもこの意志を貫いて、今後は人に試験をしてもらわず、自分で自分を常に試験して生きていくのだという強い信念を持って準備に取りかかった。依史子は独力で受験勉強に励み、大正9(1920)年12月、文部省裁縫科中等教員検定試験に合格し、教員資格を得た。ときに満18歳であった。


「銀行破産問題」「尊い経験」

島田家で取り引きのあった農工貯蓄銀行が、第一次大戦後の不景気で、取り付け騒ぎとなり、休業するという事態が起きたのは、文部省裁縫科中等教員検定試験合格と同じころであった。ご先祖様から受けついだ財産を無くさないようにと、母がただ倹約し、むだ遣いせずにしてきた貯蓄を取り返すべく、依史子は母から委任を受け、一人で銀行問題整理に立ち向かった。
この機会に世の中のほんとうの姿を究明してみようと思った依史子は、わからないことだらけのことを知るために本を読み、人にも聞いた。それによって、この国の政治家に頼る愚かさを第一に知るとともに、どういう心を持ってどう暮らすのがほんとうかを考えるようになった。この問題でいささか経済知識を得、のちに私立学校を経営するようになって、政府を頼らず生きぬく方法を考えながら、つど適切な手を打つことができた。銀行側はついに謝って、預金全額とまではいかなかったが、相当額を依史子に支払ったのであった。
財産などというものは決してあてになるものではなく、それを貯めさえすれば安心だと思って一生をすり減らすのは、愚の骨頂だと依史子は悟ったのであった。


shimada_photo03.jpg「自分の人生」「開学への決意」

なぜ女は不幸なのであろうか。女が知識に乏しいのは、教育水準が低く、尋常小学校卒業だけの学歴しか持たない者が半数以上を占め、文字が読めない人さえいる状態。
その当時、女で腕のある人といえば、教師と女髪結いくらいであり、勤め先といえば電話局の交換手くらいであった。
だからもしも職業を持つならば、ぜひ世のため人のためになる仕事をしたいし、特に同性である女性の味方になる仕事をしたい。そう考えた依史子は、さっそく、関東大震災で曲がってしまった家屋を修理し、大工を督励して裁縫塾ができるように改造してもらった。当時、主婦としての、また、生まれて間もない子供を抱えた母親としての身であり、満22歳の春のことであった。
こうして、依史子は学園の前身となる「島田裁縫伝習所」を創立し、その後、就職を意識した女子教育に力をいれ十佳女子高等職業学校を始めとする有資格学校を次々と開校していったのである。


現・文京学園は創立者島田依史子の「自立と共生」の建学精神を受け継ぎ、文京学院大学(外国語学部・経営学部・人間学部・保健医療技術学部)、大学院(外国語学研究科・経営学研究科・人間学研究科・保健医療科学研究科)、文京学院短期大学、文京学院大学女子高等学校、文京学院大学女子中学校、文京学院大学文京幼稚園、文京学院大学ふじみ野幼稚園を擁する総合学園に発展し、平成21年(2009)年には学園創立85周年を迎えた。
(学校法人文京学園総合企画室)


shimada_photo04.jpg<島田依史子 略歴>
明治35(1902)年 0歳 2月16日 本郷で誕生
明治41(1908)年 6歳 追分尋常小学校入学
大正2(1913)年 11歳 本郷高等小学校入学
大正3(1914)年 12歳 東洋家政女学校へ編入
大正6(1917)年 15歳 共立女子職業学校乙部受験科へ入学
大正8(1919)年 17歳 共立女子職業学校乙部受験科卒業
大正9(1920)年 18歳 文部省中等教員検定試験に合格
大正13(1924)年 22歳 島田裁縫伝習所を開く
大正14(1925)年 23歳 島田裁縫伝習所を本郷女学院に改称
昭和2(1927)年 25歳 本郷女学院を本郷商業家政女学校に改称
昭和7(1932)年 30歳 十佳女子高等職業学校開校
昭和23(1948)年 46歳 文京学園女子高等学校開校
昭和34(1959)年 57歳 文京女学院医学技術者養成選科開校
昭和39(1964)年 62歳 文京女子短期大学開学
昭和42(1967)年 65歳 文京短大付属高等保育学校開校
昭和44(1969)年 67歳 文京保母専門学校開校
昭和47(1972)年 70歳 勳四等宝冠章受章
昭和58(1983)年 81歳 8月23日逝去