第二弾「新・文明の旅」現地リポート
敦賀学生報告①
みなさんこんにちは!
今日から、新・文明の旅プログラムの国内組メンバー(学生8名、教員2名 計10名)による福井県敦賀市の視察研修が始まりました。今日と明日、海外での活動に向けて頑張っている海外組のみんなに負けず、国内組の8人も張り切っていきたいと思います。
さて、そんな活動の様子を、国内組の須藤、中世古、寺﨑の3人が紹介をします。
そもそも、なぜ福井県敦賀市なのか――――――――――――
新・文明の旅事前授業「特講a」「特講b」では、リトアニア領事代理であった杉原千畝氏や、ユダヤ人難民のことについて集中的に学びました。敦賀市および敦賀湾には、1920年にポーランド孤児、1940年にユダヤ人難民が上陸しました。また敦賀市には、「人道の港 敦賀ムゼウム」という、ポーランド孤児とユダヤ人難民の資料を展示する施設があります。“東洋の波止場”と呼ばれたこの地では、現地の人々との交流や当時の様子など、まさに歴史を教材に多くのことを学ぶことが、今回の訪問の目的です。
東京から敦賀へ まさかのアクシデント――――――――――
品川駅から新幹線ひかり509号に乗り、米原駅に着きました。そこから特急しらさぎ7号に乗り換え、敦賀駅に着きました。ですが、早速アクシデントが。引率のN先生が車内に鞄を忘れ、あたふた!発車ベルが鳴る中、ギリギリ車内に鞄を取りに聞き、ドアが閉まる間際にホームに飛び降り、なんとかセーフ。初めから(学生ではなく)、先生が暴走してしまいました。
敦賀では、雪がまだ残っていますが、思ったよりも寒くはなく、むしろ快適でした。
人道の港 敦賀ムゼウム訪問――――――――――――――
「人道の港 敦賀ムゼウム」には、過去に日本がポーランド孤児を助けたことや、杉原千畝氏がユダヤ人難民に大量のビザを発給し、日本への入国を受け入れた当時の出来事が具体的に展示されていました。なお、近くには敦賀港があり、二つの出来事はこの港を基点にして起きたものです。また敦賀ムゼウムは、多くの外国人観光客が訪問する場所になっています。
敦賀港とウラジオストク―――――――――――――――――
ユダヤ人亡命には、世界最長の鉄道で、ロシアの東西を横断できるシベリア鉄道が使われました。モスクワ発のシベリア鉄道の終点は、ロシアの極東であるウラジオストクです。敦賀は、そのウラジオストクと海路を通じてつながっているため、その当時の日本を代表する港として機能していたのです。
ポーランド孤児と敦賀――――――――――――
ポーランド児童救済会長のアンナ・レリーバ ヴィルケウィッチ女氏は、ポーランド孤児を救済するべく、日本に支援を求めてきました。そもそもポーランド内戦中、日本・アメリカ・イギリス・フランスの4カ国が、孤児たちを援護しようとしていました。しかしアメリカ・イギリス・フランスは、その救済ができないと判断したのか、途中で止めてしまいました。そして残ったのは日本だけ。このエピソードは、ポーランドと日本の友好のきっかけの1つになったと考えられます。
敦賀鉄道資料館(旧敦賀港驛舎)―――――――――――――
敦賀は、日本海側初の鉄道ができたことで国際港となり、「鉄道と港のまち」の横顔を持つようになりました。地形を活かし、地域を発展させることで、まさに日本の外交を発展させたのです。
1日目を終えて―――――――――――――――――――――
敦賀ムゼウムの受付で、りんごの洋菓子を販売していました。名前はルガラーと言い、ユダヤの伝統菓子だそうです。ユダヤ人が敦賀に亡命した時にも、日本人がユダヤ人にりんごを分け与えていたとのことです。敦賀ムゼウムでは、ボランティアスタッフの方からポーランド孤児・ユダヤ人、鉄道の話をうかがいました。とても分かりやすく、熱心に話してくれました。われわれも今後、日本にはあまり知られていないポーランド孤児のことや、ユダヤ人を救った日本人がいることを、みんなに知らせていきたいと思うようになりました。
初めて敦賀に来て、まず始めに気づいたことは、駅舎が綺麗だということです。何度か改修工事が行われているとのことで、われわれは、とても素敵な駅舎に迎えていただくことができました。敦賀ムゼウムや、敦賀鉄道資料館の方々、そして夕飯で訪れた地元名物「カツどん」「パリ丼」などで有名な敦賀ヨーロッパ軒の方々、敦賀駅前店の店員さんなど、たくさんの方々に温かく迎え入れていただき、本当に感謝しています。とくにヨーロッパ軒さんの「カツ丼」「ミックス丼」、おすすめです!
皆様ありがとうございました。2日目も、ぜひ楽しみたいと思います。
明日2日目のブログは・・・―――――――――
2日目のブログは、石川さん、松田さん、若山さんが担当になります!敦賀の魅力をより深く伝え、面白い記事を書いてくれると思いますのでお楽しみに!