文京女子大学の
開学へ向けて
四年制女子大学初の
経営学部開設へ向けて
女性の社会進出が進み、女子の大学進学率が上昇する一方で、1980年代後半には、18歳人口の減少や情報化社会の到来などに伴い、教育を取り巻く環境が大きく変わろうとしていました。学校法人文京学園は、1989(平成元)年5月、そうした変化を受け入れ、女子の高等教育に対する社会および産業界の新たなニーズに応えるため、次世代の女子教育への課題を追求する四年制大学として、文京女子大学の設置を決めました。既存の文京女子短期大学経営学科を昇格させるかたちで、1991年度に、日本の四年制女子大学としては初となる経営学部経営学科の開設を目指したのです。
設置認可申請書の提出
文京女子大学の開設地は、当時、都心では大学の新・増設に対する規制があったことから、文京女子短期大学の上福岡キャンパス(現・ふじみ野キャンパス)としました。短大周辺の自治体からの大学設置に対する強い要請もあり、1989(平成元)年7月31日、文部省(現・文部科学省)に提出した設置認可申請書では、大学新設の理由の一つとして「地域社会のニーズへの対応」を掲げ、埼玉県および関連する市町の首長名での「要望書」も添えられました。
設置認可の通知
1989(平成元)年12月20日、開学準備室を設置して開学に向けた具体的な準備がスタートし、翌1990年12月21日に文部省からの正式な設置認可の通知がもたらされました。この間、大学の新設に中心となって取り組み、学長に就任する予定だった島田和幸理事長が急逝し、大きな星を失った本学でしたが、新たに選任された島田燁子理事長のもとで、開学に向けた準備を粛々と進めたのでした。
文京女子大学の基本方針
1991(平成3)年1月、文部省大学審議会の報告を受けて、6項目からなる「文京女子大学の基本方針」を発表しました。基本方針では、島田燁子学長の「私たちは同志として学生を育て、自らを厳しく律して勉強をしていきたい」との考えのもと、文京女子大学の教育理念や目指すべき姿などとともに、ゼミナール教育、語学教育、コンピュータ教育を重視した教育方針が学内の教職員にも共有されました。
「前略 ボーボワール様」
正式な設置認可通知から入学試験までわずか2カ月という短期間のなかで、社会や受験生に向けた新大学の広報活動がスタートしました。1990(平成2)年12月23日、全国紙の朝刊に初めて全面広告を掲載し、翌1991年1月には、首都圏を走る電車に約1ヵ月間、車内ポスター「前略 ボーボワール様 1991年やっと日本に四年制女子大学経営学部が誕生します 文京女子大学学長島田燁子」を掲出しました。
競争率7.9倍の難関
「前略 ボーボワール様」に込められたメッセージは、1924(大正13)年に本学の起源である本郷女学院を開学した創立者・島田依史子の建学の精神「女性に自立の力を」を表したものでした。また、日本初のイラスト主体の大学案内の制作など積極的な広報活動をはじめ、さまざまな学生募集活動を繰り広げた結果、入学定員を大きく超える354名が、競争率7.9倍を突破し経営学部第1期生として、入学することとなりました。
新校舎の建設
文京女子大学の開学にあたって、上福岡キャンパス(現ふじみ野キャンパス)では、将来の発展性と既存の建物との接続性を考慮して、1989(平成元)年にキャンパス全体の統一的な設計を開始しました。学生生活を重視した環境づくりを進めるとともに、1990年1月、キャンパス東側にあったグラウンド全面を使用して新校舎(東館)の工事が始まり、1991年3月に竣工しました。
島田和幸記念アトリウム
東館には、大学の基本方針の一つである「ゼミナール教育の重視」を具現化するために、ゼミ室を設置しました。また、東館のシンボルとなっている「島田和幸記念アトリウム」は「大海を行く船」をイメージしたもので、開学後は、学生が集う場となり、入学式やオープンキャンパス、卒業式などのイベントでも有効活用されていくことになります。