大学院

シフクノトキ ― 学びたい時が学ぶ時 社会人大学院の至福と雌伏-

2024.11.26

2024年度4月よりスタートした専門職大学院福祉医療マネジメント研究科、私も春学期の後半に講義「経営学Ⅱ」を担当している。1期生の皆さんの意欲は、ベタな表現ながら、「青春」の匂いがした。匂いは、レモンなのか汗なのか、もしかしたら働きながら流してきた涙かもしれない。

多様なバックボーンを持つ院生さんの中には、職場でそれなりの役職についている人もいる。しかし、講義室では皆同じ、修士課程の院生さん。年齢、経験に関係なく学問の世界にひき込まれている。真摯に学ぶ皆さんを観ていると、自身の社会人大学院生時代が自ずと思い出される。昔話は嫌われることを承知の上で、我が院生時代を振り返りながら、社会人となって学ぶ交々を綴ってみたい。

 

1.学びたい時

我が国では、文部科学省の敷いたレールに乗れば、ある程度の学習機会に恵まれる。残念ながら私は、そのレール上で、学ぶ喜びを感じることができず、勉強に費やす時間も多くは無かった。人生とはよくできているもので、ティーンエイジャーの時に学びを疎かにしたツケは、社会人になって払うことになる。わからないことだらけなのだ。企業に勤務しながらも、株式会社制度をはじめ経営領域の知識は無いに等しい(ちなみに私が18歳で進学した学部は文学部で、選んだゼミナールは2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」のような雅あふれる平安和歌であった)。

その後紆余曲折あり(話すと長くなるので端折る)、体の奥底から学びたい意欲にかられた私は、結局37歳になって社会人大学院の門を叩くことになる。当時広島住まいだったにもかかわらず、毎週東京は池袋まで仕事をしながら通った。福岡在住の先輩が、同院を修了したというので、それなら私も東京まで通える!と踏んだが、博多の交通の利便性と比較し、広島のそれは、新幹線も長いが空港も便利が悪い、という二重苦であった。それでもなんとか、JALの株式まで購入してマイルを貯めつつ修士課程2年、そして博士課程3年の計5年間、大学院に通った。

 

2.三足の草鞋はモチベーション

計5年の社会人大学院生活は、過ぎてみれば懐かしいが、当時は髪を振り乱して、這う這うの体で乗り切ったように記憶している。フルタイムで働きながら、加えて先述したように、地方から東京への通学。2020年春以降のコロナ禍以降、オンライン受講を取り入れる大学も増えたが、それまでは通信教育でない限り対面が当たり前だった。また、小学生の娘の子育て真っ最中でもあった。改めて振り返れば三足の草鞋を履いて無茶をしていた。

とはいえ、だから頑張れたというのもある。大学院に通っていることを理由に、子育てや仕事を疎かにすることは、意地でも避けたかった。反対に、子育てや仕事を言い訳に、大学院の学びの手を抜くことも絶対したくなかった。三足の草鞋の遂行には周囲の絶大なる協力があったから、その恩を想えば歯を食いしばれた。3つあるから、3つも頑張れたのだと思う。今はあの頃の根性は無い。

 

3.シフクノトキ

大学院進学は自らの無力さ、無知さを解決したいと、そのうえで納得できる仕事をしたいという思いからの意思決定であった。サイモンのいう限定合理性の中での、無茶な意思決定であったが、結果的に吉と出たと自負している。

学んでいる時は、いつかそのうちに何かできるはず、と虎視眈々と力をつける雌伏の時であった。他方で、講義で触れる新たな知見や考え方、論文から学ぶ多様な理論、学友とのディスカッションなど、大学院生活で触れる全てが知的好奇心をくすぐり、至福の時でもあった。論文執筆時は自分の能力不足を痛いほど感じて辛かったが、でも、それでもやりがいがあった。

 

紙幅の尽きる時が来たので、昔話は以上としたい。その後、私は職場である大学を関東圏に遷し、2023年春より文京学院大学に籍を置くこととなった。小学生の娘の面倒をみてくれていた父は数年前に泉下の客となった。JALは経営再建することとなり、保有していた株式は紙切れとなった。私が昔に門を叩いた大学院の研究科長(指導教授でもある)は、現在の文京学院大学の専門職大学院福祉医療マネジメント研究科の研究科長である。人間万事塞翁が馬。

 

福祉医療マネジメント研究科

粟屋 仁美